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◆2007年11月17日、。日本春蘭「紅梅仙」、。 今回はちと長くなりそうなので、何度かに分けて、継ぎ足しで書くことにしよ!!,、。 - ◆昭和30年代、神戸三宮に,後に「キャバレー王」と呼ばれるようになる小浪義明さんという人が居た、。神戸三宮の生田筋に「新世紀」というキャバレーを経営していて、その屋上で観棕竹などを作っていた、。昭和40年代に「恵蘭・広葉ブーム」がやって来たので、小浪さんも観棕竹に加えて恵蘭も作り始めたのだた、。 キャバレー「新世紀」には、どさ周りの芸能人が回ってきて歌を歌ったり寸劇をお客に見せたりするのだったが何せ売れない芸人の余興である、。ある時「新世紀」に来た芸人が小浪社長の古典植物に興味を持つので、社長は売れない芸人を止めて新世紀の社員になって小浪さんの蘭の「水かけ」にならないかと持ちかけ、社長直属の「水かけ人」を雇う事になった、。この「水かけ」が後に50歳で独立して蘭商人になった東京の「緑宝園・佐藤旭さん」だた、。 小浪社長は自分の目で買わず、必ず出入り商人の目を通して買うのだた、。小浪さん付きの商人は杉山さんと言い、横浜・宝寿園・故・中村俊朗君の奥さんの叔父に当たる人だ、。 - エビアンもこの世界で多くの旦那を見てきた、。噂話では蘭に10億円以上注ぎ込んだ、なんてのよく聞くけれど、真偽の程は不明なのが多いものだが、小浪さんは本物だた、。多くの商人を集めた前で買うのだたし、分け隔てなく色んな分野の多くの商人から買った、。この点も高く評価できるのだ、。今のお金に換算すると30億円くらいは買っている、。今で言う在日の韓国人だった、。 神戸のキャバレー「新世紀」(寒蘭・新世紀にその名を残す、)を閉めたあと東京へ進出して、「赤坂・シアターミカド」、「新宿リキパレス」(プロレス力道山の持ち物だた、)を開店し、昭和40年代から50年代の初めへかけては日の出の勢いだったものだ、。その影響は日本春蘭にも及び、「天紫 晃」や「越後錦」は小浪さんの人気した品種だ、。日本春蘭にも多額の金を使ったが、小浪さんの死後、佐藤旭さんによって命名された黄縞「明旭」にのみ名を残している、。(義明・旭、とをくっつけて命名、)、。 ----------------------------------------------------- ◆藤沢の榎本敏一さんが、紅花の銘花「紅明」を初めて展示会に出品して日本中の話題を集めたのは、昭和48年3月17日「世田谷区民会館」だった、。 それより前の「赤花」と言えば今で言う朱金花のことで「多摩の夕映」や「瑞雲 晃」などが日本春蘭赤花の代表品種だた、。そこへ誰が見ても本当に紅い「紅明」が登場したのだから、日本中が驚いたのも当然のことだた、。「極紅」も出ていたのだが、「極紅」が真っ赤に咲き始めたのは「紅明」よりも後の時代になってからだた、。 - 「紅明」には3人の弟が居り、それぞれ上から「紅梅仙」「紅雄」「寿」という、。いずれも千葉県産で千葉の草の特徴を持った「ゆったりとした日月垂れ」の葉性を現す、。「紅明」と「紅梅仙」は元・理髪店主の榎本敏一さん、「紅雄」は千葉の伊藤恒雄さん、「寿」は新潟の松永蘭園さんが夫々命名し世に出したものだ、。 「紅明」は昭和48年に登場した後の昭和50年か51年にはエビアン棚にも大阪の竹島健太郎氏経由で入っている、。 - ◆藤沢の榎本さんに「紅明」に続く銘花として「紅梅仙」という紅花があると聞こえてきたのは、昭和54~55年ごろのことだた、。当時は「誠文堂新光社・ガーデンライフ」が写真集をよく出版していたので、それで見知ったのかも知れない、。「梅」や「仙」というのに捧心に兜は無いなぁと思ったのを覚えている、。 その「紅梅仙」は榎本さん以外では東京の小浪さんが一鉢高価に購入したというのを業界紙「園芸趣味」(廃刊)紙上の記事で見ていた、。 - 昭和55~56年のある日、小浪さんが他界されたのを聞いたので、「紅梅仙」のことがどうにも気になり、商人のコネを頼って緑宝園・佐藤旭さんに「小浪社長の紅梅仙」の買い取りを打診した、。佐藤さんの話では小浪さんの「紅梅仙」は福井の栗塚さんに預けて作が掛けられていて、今ちょうど小浪さんのお嬢さんから故人の蘭の一覧表を作るよう頼まれているが、まだ作ってないので、今なら栗塚さんから持って帰って来れる、というものだた、。 - 佐藤さんは翌日さっそく東京から福井へ行ってくれ、栗塚さんから大きな大きな「紅梅仙」4本に押し子の4本半を持ってエビアン宅へ来てくれたが、栗塚さんには「水かけ賃」として「バック1本」を残されてしまった、。また、藤沢の榎本さんは、直前に発表された千葉の増田儀一さんの黄花「満月」を分譲希望したところ、「紅梅仙」と交換なら「満月」を出すということで交換していた、。この時点で「紅梅仙」はエビアンに一鉢、榎本さんに一鉢、増田さんに一鉢、栗塚さんにバック1本となったが、東京の商人に言われて榎本さんは増田さんの「紅梅仙」を買い戻した、ここでも、バック1本を増田さんに残されてしまった、。 - 作を掛けてみると栗塚さんという名人の後では本当に難しく、翌年は押し子から小さな芽を両子に出しただけだた、。この「押し子に両子芽」を東京の興花園営業部長だった野田谷君に持ち出され、千葉県の人に納められた、。2年後、当時、春の興花園展というのは春蘭界の若手活躍者商人で作られたばかりの「東洋蘭21クラブ」が力を入れていただけに、高級品が出ることでは全国一の人気展示会だったのだが、その「興花園展」にエビアンから出た「紅梅仙」が千葉の人によって持ち込まれ、その花を全国の有力商人・愛好家が見て、花の良さに人気が爆発したのだた、。 - エビアン手元の「紅梅仙」は、というと、その後、作を崩して立ち直るのに3~4年間を要したのだったが、人気が長続きしたので、高価に買ったが、なんとか無事に元手は回収できた、。 緑宝園佐藤旭さんとは、このことがあってから親交が始まり、後に女雛の谷嶋孝司さんらと共に「全日本東洋蘭連合会」(全東連)の結成に力を貸すことに繋がって行ったのだた、。東洋蘭のもつ縁で蘭界の付き合いがこのようにして深まって行った思い出の蘭である、。 今回の登場人物は、福井の栗塚さんと横浜の野田谷さん以外は、すでに冥界の人である、。思い出の蘭の物語をそれらの人に捧げたい、。
by evian_tn
| 2010-10-14 22:33
| 日本春蘭
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