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![]() ◆2011年6月8日、。 東洋蘭「京楽焼鉢」 前スレで(勝手に)予告しました「京楽焼鉢」の「風来記ページ」の記事は無期限延期させて頂きます~、。ごめん、。もう少し資料を探したいのと、後はムニャムニャムニャムニャ、。 資料といっても、そうは思う古書には出会えない、。10冊くらい買って少し役立つのが1冊くらいの確立だろうか、。打率1割てとこ、。仕方がないので、「楽焼鉢」や「楽焼絵付け」に的を絞らず、庶民文化の時代背景などの周辺から状況証拠固めのようにして当て嵌まる鉢を見ながら想像するようにしている、。 今は日本の伝統文様を調べてる、。すると、そこから思わぬ事が見えて来たりすることがあるもんだから、それが楽しくて少し嵌ってる、てとこかな、。 「楽焼鉢」の「絵師」は、江戸幕末から明治のころには生業(なりわい)としていた人たちが居た、のは確実だ、。エビアン自身が性格的には職人なので分かるのだけど、窯元の職人はあくまでも「土をこねて鉢を作る人たち」であって絵心はないものだ、。しかし窯元もある程度の絵付けをした製品を売り出さないと商売が成り行かないから、多少の絵付けはしたのだけれど、鉢製造職人が付ける絵は決められた模様をお義理で描く程度だから、そこには芸術性も伝統の良さも何も生まれて来ない、。 余談になるがエビアンは子供の頃から仕舞や謡曲を高校生の頃まで習っていた、。謡曲というのは板の間に正座して腹から声を張り上げる発声法である、。歌謡曲や演歌というのは立って歌うものだから発声方法は謡曲とは全く異なる、。40歳過ぎの頃PTAの役員が回って来てカラオケスナックへ行くことになった時に演歌や歌謡曲を歌えない自分に気が付いた、。いくら努力しても体に染みついた発声法というのは抜けない、。・・・何を言おうとしているかてと、「鉢職人」と「絵師」とは全く別な人達であって、真似ようにも真似られないものだ、ということ、。 「絵師」の人たちは土から鉢は作れないけど絵心はある人たちだ、。「京狩野」や「琳派」の生き残りが流れて来た、というのが万年青界や風来記の最も常識的な筋書きだった、。が、ここへ来てエビアンは江戸後期から幕末、そして明治から大正時代へと流れる時代背景を年毎に知ると、一年一年が大変化の連続で、どんな仮定も成立するな~、と思えるから、資料調べをする時に、心の中に一つの物語を想い描くようにしている、。「職を失った絵心のある武士」(ま、素浪人だけど、)という方が何かしら時代劇のようで、いい、。だから、そういう人を思い描きながら楽鉢絵付けを調べている、。 ま、ともかく、「絵師」は存在したと思う、。面白いことに江戸には居なかったようで、全て京都にいた、。人数は多く見積もっても10人も居なかっただろう思う、。いいとこ5人程度までかな、。手島揫二窯や福富京楽堂の製品に窯元絵付け以外の作品を見ないから、。手島や京楽堂は東京だけあって、伝統に囚われないモダンで奔放な絵付けをした、。(誤解があるといけないから書くけど、江戸には着物絵師は多く居た、。江戸での着物の専門絵師は1700年~1730年には専門職として誕生し、江戸小袖などの粋なデザインを多く製作していた、。ただ、着物文化においても当時、モードの中心地は京都であり、情報発信の拠点もまた京都だった、。楽焼鉢の絵師は東京での楽鉢製造が明治中期以降だったこともあり、東京には誕生しなかったと思われます、。) 「楽鉢絵師」の身分がどの程度の物であったかは分からないけど、人数から見てもあまり身分の高い絵師ではなかった思う、。江戸時代以来やはり絵師と言えば(浮世絵に次いで)「着物」であったけれど、着物よりも実入りが良かった絵師も居た、。例えば宮崎友禅という人は、元々は「扇面師」(扇絵師)だった、。「扇面画工」として十分に有名で一世を風靡していたのだたが、後に着物絵のデザインも手がけ、「友禅染」に名を残しているが、扇面絵師としての方が有名だった、。このように着物以外でも(というか着物デザイン界には各種の抵抗勢力があったらしいのだが)、絵師として名をはせた分野の人はいた、。「楽焼鉢絵師」は「おちゃわん楽家」の影に隠れた「植木鉢」という陽蔭の文化だっただけに世に認められなかったのだろう、。 一方、京都では、窯元製品にはモダンと言うかなんというかヘンテコリンな絵付けをした鉢も残っているが、絵師たちは日本古来の伝統文様を忠実に踏襲した作品が大部分だった、。風来記ページに書いたように、花をアレンジして描いたのかと思いきや、伝統文様の「雪」だったのがその一例だけど、伝統文様に存在しない絵はほとんど描かなかったようだ、。とんでもない絵付けに見えても伝統文様の組み合わせだったという方が多い、。 「京都の伝統文様」は中国由来の文様もあり桃山時代以前から、着物や工芸品に広く使われて来たけど、「楽焼鉢」に使われる文様は江戸時代中後期に流行したものがほとんどだ、。 「紋様」「文様」「模様」「紋」「文」いずれも同意語で、英語では「パターン」に相当し、「繰り返し使われるもの」程度の意味だ、。 (尚その後努力の甲斐あって「浪花恋しぐれ」「時代遅れ」「さざんかの宿」は歌えます。古いけど、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。)、。
by evian_tn
| 2011-06-08 00:53
| 東洋蘭鉢古鉢中国鉢
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