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◆2013年8月27日、。 楽焼植木鉢の歴史 前の2スレッドの記事中に、「楽焼鉢の形の歴史を30年~50年間遡って考えねばならなくなった、」と書きましたが、現在市中に出回る楽焼錦鉢の全てを50年古く言って売っても構わない、ということではありません、。案外古くから形は完成していた、というだけの話です、。 **************************** 「楽焼植木鉢」は、楽本家3代目の「道入(通称:のんこう)」の弟「道楽」や2代目「常慶」の弟「宗味」が開いた「脇窯」に於いて1656年以降に焼かれたものです、。資料的には「1656年以前には楽焼鉢は存在しなかった、」と思います、。 画像1枚目がその頃の楽焼鉢です、。分厚く重く加茂黒の掛かりも厚いものです、、。これを「初期楽焼鉢」とし、「1600年代後期型」とします、。 2枚目画像は、形が少しモダンになっているので、「万年青鉢や蘭鉢の基本形が形成されようとする頃」の鉢で、縦長になり、足が少し持ち上がった風な鉢です、。 これを(根拠は薄いのですが)「楽焼鉢1700年型、」とします、。 西暦1700年代は古典園芸界にとっては闇の時代で、どういう植物が栽培されたのかが資料から完全に消え去ります、。従って、その間の「楽焼植木鉢」の進歩や変化についても全く不明です、。 ただし、エビアン入手の資料、「楽焼秘囊」が1734年に、「五色楽焼秘伝抄」が1779年に出版され、これらの本の中で「楽焼(茶碗)の製法」がフイゴや七輪やヘラやコテやハサミ、はては釉薬の調合法まで図解付きで公開されていますので、「楽家」以外の一般人でも「内窯」を作れるようになったのが西暦1700年代の楽焼鉢での出来事だと言う事ができると思います、。「楽家」秘伝の製造法が公開されてしまった訳です、。 画像3枚目は、エビアンが「西暦1800年型」と決めている鉢です、。1800年以後の作品ではあり得ないし、1700年代の製造かも知れませんが、それを証明する資料もありません、。 大きさはグッと小さくなり、現在の鉢へと近づいて来ます、。この頃まで、デザインが全部「太鼓胴」なのは偶然なのか決まっていた事なのかは判断できません、。 ****************************** 楽焼鉢の時代特定には・・・ ①、鉢の形や使用された土の種類と古び方、轆轤引き痕があるかどうかなど、。 ②、使用された釉薬や顔料の種類、。(簡単に言うと色の種類) ③、絵付け紋様のデザイン、。 などを総合して判断するようにしています、。 ****************************** ①、万年青鉢や石斛鉢は1830年代には形が決まって来たようですが、蘭鉢や風蘭鉢はもっと時代が下ると思われます、。 ②、1800年型には「加茂黒」「茶赤色土」「白色土」の泥漿や「瑠璃釉薬」を使った鉢は存在しますがそれ以外の色は見られません、。1830年になると「緑色釉薬」で鉢に文字(品種名)を書いた鉢が見られるようになります、。この「緑色」が「テールベルト」によるものかどうかは今の所判断不能です、。 1852年頃になると、鉢縁に金泥を塗ったものが見られるようになります、。この1852年で江戸後期は終わります、。翌年1853年のペリー提督黒船来航~明治維新までの15年間は風来記では幕末と呼ぶようになりますから、。江戸後期の楽焼鉢に有った色は「黒・白・茶赤・緑・金・瑠璃、」ということになります、。 ③、「古典の楽焼鉢」に描かれた紋様は、文字を除くと大体が「日本の伝統紋様」です、。 日本の伝統紋様は、「中国起源の紋様」と「西陣や友禅などの着物文化からの導入紋様」との総合紋様です、。中国由来の模様は決まった模様の連続模様が多く、「四瑞 」の他には「亀甲」「格子」「唐草」「七宝」などを横へ繋げたり範囲を埋めたりするものが多い紋様です、。日本の伝統紋様には「絵画的要素」が加わったものが多く見られます、。「松」「梅」「桜」「小鳥」などです、。 こういう「古来の伝統紋様を楽焼鉢」に導入するようになったのは「幕末以後、特に明治初期以降、」のことです、。それも特に着物界からの導入でした、。「一柳さん」の絵師グループの功績が大きいと思われます、。 「江戸後期」では伝統紋様の導入は無かったものと判断しますが、着物界以外の世界で使われて来た伝統紋様の描かれた鉢は江戸後期にも見られます、。「龍」「獅子」「琵琶」などを描いた鉢が1850年頃には使われていた絵図が存在します、。鉢の胴体部分全面にではなく、鉢の正面1点にのみ「龍や獅子」を描いたのです、。色は極彩色ではなく「白色のみ」とか「白色に少し緑色」とかでの絵付けです、。 明治に入って絵師「一柳」(仮名)が、「替わり」(楽焼鉢の面を縦や横の線で区切って区切りごとに違う文様を描く、)の手法を取り入れ、現在まで残っている「古典楽焼鉢」が完成します、。 ******************************* <付録・本日着信の新情報> 「短冊屋さん情報」として本日聞いたばかりなのですが、明治の京都の楽焼鉢製造窯として、新たに2窯の名前が判明しました、。これで京都の楽焼鉢窯は5軒の名前が判明したことになります、。 ◆短冊屋窯(祇園・和楽):祇園 ◆浮田楽徳窯:祇園建仁寺東南角 ◆大虎窯:東山区馬町 ◆福井楽印窯 ◆佐々木松楽窯:京都府亀岡市 ******************************* ◆土曜日曜とまる1日半の降雨があって以来、気温が少し低下した、。暑いには暑いけど以前と比べると随分と過ごし良い、。助かるわ~~、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。 今夜は夕食を挟んで奥部屋記事をモノしたので大満足、。一気に楽焼鉢窯元が5軒にもなった、。まだ何も分からないけど、京都の窯元は出尽くしたかもな、ていう手応えは得ている、。情報を下さった人に感謝だ、^^、。 意外に思われるのだけど、エビアンは短冊屋さん当代に会ったことは無い、。なぜか?、短冊屋さんに会ってしまうと意見や昔の事を聞いてしまう、。そうすると、それ以後に資料から否定的な事実が出て来ても書けなくなってしまうからなのだ、。短冊屋さんが嘘を言うというのではない、。当時の時代背景などについての意見ではエビアンが考えている事とは違うかも知れないからだ、。だから、会ってない、。縛られずに書きたいことを書ける立場で居たいから、。 エビアンは江戸後期から幕末、明治初期から中期の日本(まぁ1800年代なんだけどね)、その頃の日本と日本人(特に職人)にものすごくロマンを感じているんだ、。もうそれは他の人から見れば笑われてしまう程だ、。日常生活を送っていても、いつも自分の何分の一かはその時代に居る、。ま、それだけだけど、それは非常に楽しい事なのだ、。 江戸後期には幕府は奢侈禁止令(しゃしきんしれい・贅沢禁止令)を何度も出すのだけれど、庶民は言う事を聞かず密かに贅沢を楽しむ、。着物は青色の地味なものを着ろ、と言われれば密かに裏地に凝って金糸銀糸で柄をあしらった裏地の着物を着たりした、。こういう気持ちが文化を生み出すのだ、。楽しい時代だったろうと思う、。明治維新と共に社会は激変する、。かわら版屋が1~2年の内に新聞社や出版社に変身した、。誠文堂などはその頃にできた出版社だ、。朝日新聞も、。激動の大変化だったろうなぁ~、。その頃へ行って植木鉢を買い漁りたい、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。、何しろ今出来だもんね、プレミアムは付いて無いものね、。買い放題、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。 ------------------------------------------------------------------- そうだ、思い出した、。エビアンは濃紺の背広を愛用するが、これの裏地は真紅(真っ赤)なのだ、。この事を本井顧問に話したら、「赤い裏地の模様な何なの?」と聞くから無地だと答えると、「なんだ、私なんざ真っ赤な裏地に金の龍を刺繍してあるわよ、」と鼻で笑われた覚えがある、。上手は居るものだ、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。
by evian_tn
| 2013-08-27 15:27
| 東洋蘭鉢古鉢中国鉢
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