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◆2014年7月14日、。 楽焼鉢の歴史調べの旅 ◆何度も何度も「もうこれ以上は新資料は出て来ないだろう、」「もうこれ以上は窯元名は判明しないだろう、」と協力してくれている人に話し、自分でもそう思った、。ところが、その度に「次の資料や事実」に出会ったり教えてくれる人が出て来て少しずつ進歩して行く、。導かれるように、。本当に不思議なこと、。 もう7~8年も前になるかな、。風来記BBSで駄々香ちゃんが「京都のタンザクヤのヤは屋ですか家ですか?」と聞かれた事に始まっている、。短冊家さん当代は「家です」というのだがパンフレットには「タンザク屋」となっていたりしたもので、エビアンの楽焼鉢の歴史調べの旅はいつの間にか始まっていた、。 初めは「手島揫二鉢」の調べから始めた、。最も資料が多く調べも楽だと思われたからだ、。無精者で面倒くさがりのエビアンならではの思い付きだ、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。、。一番ラクチンな道を選ぶ、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。 「手島鉢」は簡単だと思われた、。が調べ始めると結構ややっこしい窯元だった、。どこの窯元でも(似た鉢を)お手軽に作れてしまうから「ニセモノ」「コピー」などが本物以上に存在した、。おまけに愛知県の興楽園杉浦勘之助と組んで同じデザインの鉢を製作してたもんだから、当初は混乱した、。他にも手島鉢を分かりにくくした要素はあった、。しかし、今から思えば「手島揫二鉢」は調べやすい部類の窯元だた、。 手島鉢を調べると、同じ東京本郷で明治33年にカタログを発行している「福富京楽堂」にぶつかった、。これは「手島揫二のカタログ」と「福富京楽堂のカタログ」を同時に保存し提供してくれた茨城県の梅里園蛭田氏の協力があったからこそ判明した事だ、。「福富京楽堂の鉢」は強烈な個性を持っていたので、これも比較的早くに見分けのポイントが掴めた、。蘭鉢も万年青鉢もあるが蘭鉢の方が多く目にしている、。台の鉢の陶器の質が硬く鉢の胴体が直線的で足が長い、。絵付けには結構良いものがあり、江戸の香りの残る明治時代の東京で伝統模様を多少新時代風というか東京風にアレンジしてある、。京都から500キロ離れた地の利を充分に利用した窯元だ、。 一番最初に調べ始め、今も時々「大きい壁」にぶつかるのは、やはり「短冊家の鉢」で、これは”曲者”だ、。初めは何でもかんでも「短冊家鉢」に見えた、。そういう時期がしばらく続いた、。「短冊家」で苦労した原因は蘭鉢・万年青鉢で作りが違ったのと、鉢の大きさによっても作りが変化する窯元だったからだろうと思う、。これを判断するには箇条書きにはなりにくい総合的な判断力を必要とした、。結局、自分の見る目の程度を短冊家鉢に計られているような気持ちになる、。「短冊家が見れなくなる壁」に3度ぶつかった、。まだ今後も有るかも知れない、。本当に弄ばれているような気持ちになる、。 「京都の窯元」は「短冊家」しか判明しないのに「東京の窯元」は2つとも特定可能になるというネジレ現象のスタートになった、。 「京都」は短冊家しか具体的な窯元名は判明しないのかなぁと諦め始めた頃に千葉県の笠原氏が、短冊家さんの口から「楽徳という窯元があったと聞いている、」という言葉を引き出して知らせてくれた、。どこかで読んだことがあると思い調べると、植木鉢の方では出なかったけれど「陶芸」の方の資料から「浮田楽徳窯、」の名前が出て来た、。文久元年1861年開窯、楽焼を焼いたと書いてあった、。京楽焼鉢の中で最も短冊家製品に似ている一群の鉢の分離特定が出来るようになった、。突然のことだた、。 「浮田楽徳窯」は京楽焼鉢の中で最も多く高級絵付け鉢を製造した窯元だ、。蘭鉢も万年青鉢も存在するけど蘭鉢に優れた作品が多い窯元だた、。 「京楽焼鉢」の窯元名が2窯判明した訳だが、まだ未分類の窯元作品が存在する、。この時にも「もはやこれまでか、」と感じた、。 ところが昨2013年秋になって突然、今度は京都の丸山氏から「佐々木松楽窯」「大虎窯」「福井楽印窯」の窯元名を短冊家さんの口から聞いたと知らせてくれた、。 そのことを鉢のことでは何かと相談に乗ってもらってる知人に知らせると、「だから2年前に、絵付けの芸妓の着物の袖に”佐々木製”と書いてある鉢の画像をエビアンに送って”佐々木窯”というのがあったのではないか、と伝えたじゃないか、」と言われた、。忘れていた、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。、それで2年前のフォルダーを見ると確かにそれが有ったのだた、。「佐々木松楽窯」の特定だた、。実にあっけなく判明する時にはするものだと思った、。実は本日昼間にも佐々木窯の当代からメールで自分のfacebookにあの芸妓絵付け鉢を載せたいがかまわないかと訊かれ承諾したばかりだた、。 京都の楽焼鉢窯元で作品を特定できてない残りは2窯となった、。これも急ぐまい、。分かる時が来れば一気に判明するんだろうと、今はむしろ楽天的にさえなって来ている、。 楽焼植木鉢は明暦2年1656年に大阪の堺で「楽忠右衛門」によって焼き始められ、堺を中心に広まり、その後、文化文政年1810~1820年ごろに京都祇園の短冊楼主人によって京都で作り始められ、幕末には京都でも製作が広まり、明治には東京でも作られるようになった、。 これを調べる途中では「顔料」の件でオランダデルフトの画家フェルメールの人生を知ることになったり、浮世絵絵師を知るようになったり、江戸から明治へかけての京都の着物や扇面絵師文化を知るようになったり、顔料のシルクロードを知るようになったり・・・・・と様々な勉強をさせてもらい栄養になった、。 思うに、徳川家康が江戸へ都を移してからの京都大阪は、江戸の繁栄とは逆にあらゆる分野で衰退の一途を辿っている、。江戸狩野と京狩野の違いを見れば歴然なように、「東京一極集中」が言われるけど、そんなことは400年も昔に始まってたんだ、。 それにしては、京都の「楽焼窯元」は感心するくらいよく頑張ったと思う、。主役の座を明け渡さなかったのだから、。 エビアンの楽焼植木鉢調べはまだまだ途中、。 京都での楽焼鉢は本格的に製造されたのは幕末期以降の事、。では1656年から1853年までの約200年間はどうしていたか、というと、大阪で作られていたのだと思う、。現在残っている最も多く目にする「蘭鉢と万年青鉢の形」に当て嵌まらない規格外のような形の鉢で古い物の多くは「大阪鉢」である、。「楽焼鉢の歴史調べ」は最終的には「大阪の楽鉢」を調べることに行き付くのだろうと思う、。 京都国立博物館だったか美術館だったか(資料が見つからない)の学芸員が何かの本に書いていたが、京都駅から北の方面へ地下鉄工事のトンネルを掘り進むと多くの窯元跡にぶつかるそうだ、。そのほとんどの窯跡から楽焼風のカケラが出るそうだ、。それくらい多くの窯で楽焼は焼かれていたということだろう、。更に、大阪で発掘すると年代的に古い楽焼の痕跡は大阪で発掘されるのだと書いている、。「だって楽焼は大阪で焼かれていたんだもーん」と書いていた、。そんな資料は、特に植木鉢などのマイナーな焼き物の資料は出て来るものだろうか、。 日本での「植木鉢の研究」では過去には「村田憲司さん」や「武内猛馬さん」といった大先輩が植木鉢の本を主として樹石社から出版しておられる、。だがそれらの本で取り上げられる鉢の大部分は盆栽界のことでもあり「支那鉢」に関してである、。「和鉢」「日本鉢」の掘り下げた研究はあまりなされていない、。日本各地方に古来より窯元は多く、一つ一つを深くは調べて居れなかったのだろう思う、。特に「楽焼植木鉢」に関しては過去の資料はほぼゼロの状態だ、。エビアンは口火を切ったに過ぎない、。「楽焼鉢の研究」は始まったばかりなのだから、。 「蕙蘭」の流行は九州地方・中国地方・大坂・名古屋東海地方でのものだった、。「春蘭」は東京、。商人は九州・中国四国・関西・中部地方・関東地方に散らばっていた、。昭和の恵蘭ブームの中心地は大阪であり大阪には埋もれた楽焼鉢が随分多く残っている筈だ、。エビアンが蘭を始めるよりも20年も前の事だからどこに旦那が居たのかさえも知らない、。 エビアンが蘭を始めた頃は昭和40年代の初めで、最後の恵蘭ブームが始まろうとする頃だった、。エビアンは初めっから春蘭好きだったから交換会に出品される蘭が恵蘭ばかりの中で一日中春蘭の出品を待っていた、。ある時の交換会に趣味家が「蕙蘭大勲の縞」を出品したら商人が取り合いになって値段はたちまち跳ね上がり、エビアンの隣に座っていた商人が19万円(月給2万円ほどの時代)で奪うように落札して急いで蘭を鉢から抜いて新聞紙に包んで籠の中へなおしてしまった、。手に残った鉢は隣にいたエビアンに「あんた、これ要るだろう』と言ってホイと渡してくれた(画像下2枚,口径10.8cm)、。結構いい鉢だと思ったが何かは判らず貰ったままで30年ほどの時間が経過してから「短冊家の黒唐草模様のところどころに宝石のような模様が入った3寸蘭鉢」だと判明した、。蕙蘭全盛時の楽焼鉢はそういう扱いを受けていた鉢だた、。 東京の「福富京楽堂」が楽焼鉢のカタログを発行したのは明治33年1900年のことだから、東京を中心とする関東地方にかなり多くの鉢を売ったに違いないのだが、それらも今は残っているに違いないのに出て来ていない、。現在の蘭界や萬年青界には随分多くの鉢が残っているように見えるだろうけど、眠っている鉢はまだまだ多い筈である、。 20歳代から30歳始めへかけての約10年間、建築パースイラスト(完成予想図)を描いて食ってた時期がある、。これは絵心の無い人にも描ける、。つまりは「絵師」と同じだ、。設計図を見ながら決められた方法で下書きをし、極端な言い方をすれば後は塗り絵の要領だけで描ける、。ビルのガラスは近くではこういう風に見えるが遠く離れたらこんな風に見えるという観察眼程度は必要とするけどね、。その10年間の経験で”絵師の手の癖”というのは個人によって決まっていることに気付いていた、。そのことが「楽鉢絵師」の手の違いを見分けるのに役立っているかも知れない、。慣れた職人か初心者か、自分の描きなれたオリジナルか他人の物真似か、などは一目で分かる、。「五柳」か「偽五柳」かも判断が付く、。あの10年間は無駄ではなかった、。 あ、何を言いたかったのかを書き忘れてた、。 つまり、イラストを描いてた経験上「陶磁器顔料」には当初から敏感だた、。日本には例えば野々村仁清が磁器に絵付けを施した壷などが残っているように陶磁器顔料は存在したが、これと楽焼鉢に派手な絵付けをした顔料とは根本的に別物だと感じた、。それで「楽焼鉢の時代の特定」に「顔料」の方向から調べた、。これは今でも正しかったと思っている、。 従来の陶磁器顔料は素焼きに塗った時とそれを焼いて窯から出した時では色が違うものだ、。化学変化を利用した顔料だった、。「楽焼鉢」に使われる顔料は言ってみれば「絵具」のようなもので、塗っている時と窯から出た時の色は同じ色だ、。大部分の色がそうだ、。 西洋でも同じで、ファン・ゴッホが絵を描いたのは日本の明治時代にあたるが、その時代に「チューブ入りの絵の具」が発明されている、。 それで、江戸時代と明治以降との違いを判断できるようになった、。各種の色が売られるようになったのは幕末以降のことである、。だから「顔料」の方面から「楽焼鉢」を追ったのは正解だったろうと思う、。 画像1枚目は「浮田楽徳花菱繋紋、」口径13.4cm 画像2枚目3枚目は文中に出て来る「短冊家唐草紋」口径10.8cm(貰ってから46年経過する、。)
by evian_tn
| 2014-07-14 00:38
| 東洋蘭鉢古鉢中国鉢
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