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◆2014年10月20日、。 京楽鉢「一柳と浮田楽徳」 画像の蘭鉢は「風来記」に掲載した飛田邦之氏の分とは別の「浮田楽徳製蘭鉢」で、立岩信彦氏所蔵の鉢です、。 絵師「一柳」というのは以前にも度々書いているようにエビアンの想像上の謎の絵師・幻の絵師です、。、「楽焼鉢」の話を進める上ではその存在が大きく、謎とロマンを持って親しんで来たのですが(まぁ便利に使って来たとも言えますが)、ここへきて少し妙な雰囲気が漂って来ました、。 ◆謎の絵師「一柳」とは「浮田楽徳」自身のことではないのか、という仮説が現実味を帯びて来ているのです、。 最近、2つの事柄を知るに至って、様子が変化してきました、。 1つは、「佐々木松楽窯」が「錦絵絵師」から窯元になり、絵師が窯を開くという事もあったのだという事実を知ったことです、。今まで、まず「窯元」ありき、で調べて来たエビアンにしてみれば”目から鱗が落ちる”ような衝撃でした、。 「楽焼窯元」に必要以上に権威付けしすぎて来たエビアンも萬年青界も蘭界も、大いに反省するところでしょう、。 「楽焼植木鉢」の「内窯」程度は、素人が簡単に裏庭にある「離れ」で作れてしまうものだったようです、。 「絵師」出身の「窯元」もあったどころか・・・ 「窯元」=「絵師」が大部分だった、という訳です、。驚きますよね~~、。 2つ目は、江戸幕府の成立と共に「狩野派の絵師」の大部分は江戸へ下り「江戸狩野」を成立させて大きい仕事をした、。これに対して、あくまで「京都」に拘って京都に残った絵師達を「京狩野」と呼びますが、「京狩野」は仕事も無く惨めだったようです、。後になって「狩野山楽」だけが仕事をすることを許された程度で、他の絵師は惨めな仕事と生活をしていたようです、。 その「京狩野」の中の一派に「浮田一蕙師弟」という人達が居た事が判明しました、。 まぁ「浮田姓」なんて他にもある、と言われればその通りなのですが、ここに至って初めて「京狩野の絵師が楽焼絵付けに影響を与えている」と6~7年も前に書いた仮説が現実味を帯びて来たと思いませんか、。 「浮田一蕙」の弟(または息子)が「浮田楽徳」、その弟子が「五柳」・・・という新たな仮説が出て来ました、。おまけに「浮田一蕙」も「五柳寿運」も四国と所縁があるとなれば、これはもう確率高く”当たり”かも知れません、。 ◆結論を先に書いてしまいましたが、google検索窓に「大和絵」と書いて検索してみて下さい、。(表示画面の画像をクリック) これは、まさに「楽焼絵付け」の世界ではありませんか、。ようやく、「楽焼鉢」の胴に描かれた「絵付けのルーツ、」を見付けました、。 、江戸後期から幕末へかけて「復古大和絵派」という「やまと絵」の復興を試みた絵師が出て来ました、。 土佐派を基盤とする絵師の中に「浮田一蕙師弟」(浮田一蕙1795~1859年)が居たという記述があります、。「復古大和絵」は田中訥言→弟子・浮田一蕙→冷泉為恭といった人達に引き継がれました、。 ◆「京狩野」の中の「復古大和絵派」に「浮田姓」の「絵師」が居た、ということ、。 ◆「楽焼鉢」に描かれた絵付けのルーツは「大和絵」にあること、。 --------------------------------------------- ◆「浮田一蕙」は1795年~1859年、「浮田楽徳」は天保元年(1830年)生まれで、35歳も年が離れてれば「兄弟」ではないでしょうけど、何かの血縁関係という線は残ります、。親子かな? ◆「冷泉為恭」(れいぜいためちか)は本名を狩野永恭(かのうえいきょうといい、京都冷泉家とは無関係、勝手に名乗ってたらしい。 ***この文は「風来記」にも転載しました***
by evian_tn
| 2014-10-20 00:11
| 東洋蘭鉢古鉢中国鉢
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