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◆2018年4月1日、。 手島揫二鉢の全て、奥部屋版 「風来記ページ」の補足、。 ◆「初代・釜揫・手嶋揫二」 嘉永5年(1852年)三河国幡豆郡(はずぐん)釜谷(鎌谷)村の生まれ、明治9年西端村へ転居、明治30年東京文京区本郷へ転居、大正7年(1918年)東京で逝去(66歳)、。西端時代は「手嶋」であったが、東京へ出てからは「手島」と名乗ったようです、。 ↑上記の事が分かっただけでも驚天動地もの、なのに、「東京手島窯」が開窯に至った経緯や「三河鉢」と呼ばれている一群の楽鉢のルーツまでもが一気に判明するとは、ただただ驚きと喜びのみ、。 楽鉢の調べ初めに皆は京都短冊家へ話を訊きに行って、短冊家の説明を信じて「京都短冊家」を出発点にして調べるから、それ以前の「大阪楽」を知ろうともしない、。それでも「京楽」と「東京楽」とは何とかなるが、「大阪楽」と「三河楽」とは霧の彼方だろう、。 エビアンも同じようなもので、「三河楽」という掴み所の無い一群の鉢には手を焼いていた、。 それで、「三河鉢は楽鉢界のグレーゾーンのままでいい、」なんてことを過去に書いたことを覚えてる、。「京都や東京のコピー商品を生産したのであろう」と思っていた、。 まさか自分が生きている内に「三河楽の歴史」が解明できる日が来るなんて、夢にも思わなかった、。それも自分自身でその記事を書く日が来るなんて・・・、。感謝と感激以外の何物でもない、。 一般に言われる「三河鉢」というのは「愛知県で製造される陶土の白い昭和時代の鉢全般」を指す言葉だけど、知ってみれば「三河鉢」と呼ばれる鉢は存在しない、。 明治時代の西端粘土を使った茶色い陶土の「西端楽」nisibataraku、と 昭和時代に入ってから木節粘土kibusinendoを使った白い陶土の「西端焼き」 が存在するのみであった、。 楽鉢数寄者が、どうにも好きになれない「あの白い陶土」は成形しやすい「キブシ粘土」と呼ばれるものだったのだ、。 「西端粘土」は手嶋揫二達が人生を掛けて製品化するのに苦労するほど陶器用粘土としては扱いにくく品質の悪い粘土なんだそうだ、。だから「瓦製造」くらいにしか使いようがなかったらしい、。陶土は各種粘土を混ぜて調合して作るものだったとは知らなかった、。 手嶋達は郷土のその土で地場産業を興そうと苦心した、。明治維新と廃藩置県とで藩からの碌をもらえなくなり、地域住民の生活の糧を稼ぐためだった、。 そして苦労の末に「陶器製品」として完成してみれば、「作ったけれど売れない」という現実だった、。それで「西端楽焼の販路を求めて」上京した訳なんだ、。 「手島鉢」の背後には郷土「西端」への郷土愛があっただなんて、泣かせてくれるじゃないのよ、。 地図上、「手島窯」の位置は「団子坂と動坂とが画面左の坂の下を起点に横V字型<になっていて」、画面右へ行くほど上り坂です、。「手島窯」があった駒込林町は現在は千駄木5丁目と3丁目(の西半分)になりますが、エビアンが見た地図で林町と書いてあった場所に○印を書きましたが、団子坂上というのはもう少し右の坂の上の方だったかも知れません、。まぁどうでもいいようなことなんだけど、。 「福富窯」の○印は良く見て頂くと中央に「殿中」と書いてあります、。上駒込傳中は殿中と同意語なので、この場所で間違いは無いと思われます、。 「手島鉢」と「福富鉢」がご近所なのに製品が全く似てないのは、手島揫二が何のために東京で故郷の粘土を使って楽鉢を作っていたのかが理解出来れば分かる事だったのですね、。 明治30年、の項目は「手島」と書くべきだったかも知れません、。(4月1日11:30、直しました)明治30年は「手嶋」と「手島」とを使い分けています、。 説明不足はあるかも知れません、。 明治15年頃、西端の手嶋たちの道向かいで西端藩の下級武士「中里家」が陶器を焼くようになります、。 「中里五代・東城山一角」の初代です、。こんな所に「東城山一角」が出て来るなんて驚いた、。「桃源社」とは別な動きです、。 「嶋」と「島」とは「嶌・㠀」とも記し、同じ漢字なんだそうです、。画数が違うから運勢は変化すると思うんだけどね、。 今月の風来記ページ「手島揫二の全て」の記事は商人さん達には大きな衝撃だったようだた、。 古典楽鉢を深く知っている人ほどショックは大きかっただろう思う、。何人か電話を貰った、。 元になる資料といっても少しずつ違う3種類の資料で夫々が微妙に表現が異なる、。2月末に貰ってから、資料の読み込み、噛み砕いての理解、文章の組み立て、を終えるのに1カ月間も時間が必要だた、。展示会準備中や展示会当日も、頭の中では「西端焼き」→「西端楽」→「西端楽の鉢」→「手嶋鉢」と進化して行く過程のことばかり考えていた、。理解するのに時間がかかった、。 書いてしまえば、あんな短い文章だけど読んだ人に伝わるかどうかと緊張した、。後の時代の人に理解しやすいように、形容詞や装飾部分や郷土愛の部分を削除するのに苦心した、。久々の大作だった、。 書かなかった事もあるし、理論の飛躍も1か所ある、が、まぁ許される範囲のこと、。 「三河楽」という言葉は資料の中には一度も出て来ない、。三河地方で製造された鉢も「三河楽」とは呼ばない、。困ったな、。古典園芸界では、かなり以前から使われて来た呼び名だ、。 明治の西端粘土を使った茶色い陶土の「西端楽」と 昭和の木節粘土を使った乳白の陶土の「西端楽」とがあるだけだ、と書いてある、。 ならば、明治の方はそのままで「西端楽」と呼び、昭和の白い土の方を「三河楽」と呼ぶ事にしようか、。 そうでもしないと、ややっこしくて仕方がない、。 ●まぁ、でもこれで、「大阪楽」「京楽」「西端楽(三河楽)」「東京楽」が系統立てて存在が明確になった、。誠に目出度い、。 <追加関連記事> ◆スレッドNo.1866「西端楽鉢(古い三河鉢)」はなぜ軽い。(文字クリック)
by evian_tn
| 2018-04-01 00:21
| 東洋蘭鉢古鉢楽焼鉢
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