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◆2008年12月16日、。 楽焼錦鉢「五柳、」(ごりゅう) 何時の日か、「楽焼鉢の歴史」を纏めたいと思っているので、その時、急に話が来ても慌てないように、書き出しの部分などの練習のつもりで、この「東洋蘭風来記奥部屋」に断片的に書いています、。 「五柳鉢」、。先日来、この画像は貰っていたのだたが、業者の持ち物であり、どういう風に商売されるのか不明だったので、風来記での画像掲載を遠慮していた、。「自然と野生ラン」2009年1月号に掲載され、この鉢が納まった神奈川県のH氏の画像使用許可も貰ったので、チョコッと使用させて頂くことにした、。 「五柳」に関してさえ、まだ不明な部分も多いのだけど、(疑問点などは明日以降に掲載、)明治大正昭和の時代を生きた才能優れた鉢作家または絵師だった、。万年青界で言われるように、狩野派の流れを受け継ぐ人だったに違いない、。「五柳」の絵付けを見ると、「狩野派の仏画」からのデザイン引用と思える個所が随所にみられるから、。 画像の鉢でも、足の高さまでは「波文様」(ここでも五柳独自のイッチン使いが見られるのだけど、その事は2009年2月表部屋トップ画面の鉢参照を乞う、)を描き、上部の「雲鶴文様」との間に横線を引き、五柳得意の「雲型」デザインを描いている、。この「雲型」は「狩野派仏画」の特徴が見られる、。「五柳」はこういう風に、並みの絵師なら一番苦労するハズの「空間の埋め方」が実に秀逸だと思う、。空間を埋めるのには多くは「雲型」を上手に使用している、。 「狩野派」というのは大変な画家集団で、江戸幕府の成立と共にその本拠を江戸へ移したのでしたが、あくまでも京都に拘って京都に残った一団の画家が居て、この人たちを「京狩野」と呼びます、。京都で画業をし寺の襖絵や天井画などを描いたようですが、有名寺の襖絵などの大きな仕事の時には、江戸狩野が仕事に来て京狩野は隅へ追いやられたようです、。 およそ400年間の後に明治維新を迎えるのですが、想像を絶する西洋化の波と、廃仏毀釈の波とで、京狩野の画家達は徐々に仕事が無くなり、その一部の人がアルバイト的に植木鉢の絵師として流れて行ったのではないか、とエビアンは想像します、。中の一人または一群が、4世紀の中国の詩人「陶淵明」に心酔した人で、陶淵明を真似て「五柳、」を名乗ったのではないか、と考えます、。実名が伝わらないのは、本業以外のアルバイトだったせいではないか、と、。 この時代の「京楽焼」には「五柳」以外にも、落款は無いものの「五柳」と比べても見劣りしない凄腕の絵師が居て、「脇窯もの」の楽焼鉢に見事な絵付けをした鉢が残っていますから、アルバイト絵師は五柳だけでは無かった事が分かります、。 エビアンが呼ぶ「脇窯」(わきがま)というのは、楽家本家を「本窯」(ほんがま)とした場合の呼び名で、楽家の血縁または所縁の人が開いた窯の事です、。(この事は、楽家13代目が昭和初期に出版された本の中で述べて居られます。素人のお庭焼きの件もそうです。)従って、楽家は「御茶碗」を主体としているのに対して、「脇窯」では生活雑器を焼いていたのですが、楽本窯の製品に引けを取らない優秀な楽焼製品が多く残っています、。 「短冊屋」は、楽家とは縁も所縁も無い、楽家から見れば「素人のお庭焼き」に過ぎない窯で、「脇窯」には含まれません、。同様に「手島」「興楽園」「愛楽園」など鉢製造所も「脇窯」ではありません、。我々が「植木鉢」メインに見る「楽焼」と、本来の「楽焼」とは、かなり別物であることは覚えておかねばと思っています、。
by evian_tn
| 2008-12-16 00:29
| 東洋蘭鉢古鉢中国鉢
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